Personal Story  椛蜥J政吉商店・潟Iオタニ A
次回に続く
天秤の夢
 新吉が誕生したのは明治10年(1877年)西南戦争の最中、横浜の子安(神奈川区)の漁村。新吉が天びん棒をかついでアサリを商家や生麦あたりの家まで、売りにでかけたのは10才の頃。10才といえば腕白坊主の遊びたい年だが、この坊主なかなかどうして、「いまにこの海の貝をもっと増やして、皆に沢山食べさせてやる」と銀色に波打つススキの原をアサリ少年は駆け抜けていった。後日、貝の養殖で大成功した新吉は、この時の姿を黄金色のススキの原をアサリを振り分け天秤をかつぐ少年の肖像画として掛け軸に描かせて、常に初心を忘れなかった。その志は、今、新しい時代のなかで、魚介類加工の専門メーカーとして、椛蜥J政吉商店と潟Iオタニの二社の企業で、それぞれの持ち味を発揮して、後継者達によって確りと受継がれている。
 1900年代、日露戦争の前後になると急速に近代産業が発展する。明治38年の日露戦争では、佃煮は栄養価があり、保存が効いて、携帯に便利なことから軍用に注目され、近隣の佃煮業者へ軍納の命令が出された。新吉のアサリ貝は、佃煮原料としてどんどん近隣の佃煮工場に運ばれていった明治41年(1908年)に神奈川〜八王子間の鉄道が開通、その頃、新吉の貝類の養殖場は、東京湾の新子安、磯子、千葉県木更津、船橋まで日の出の勢いで広がっていった。新しいものへの研究熱心な新吉は、養殖経営だけでは満足せず、明治39年に貝類の佃煮製造によって生炊き佃煮の工業化を始めた。養殖、採集、一時加工処理、調味加工までの一環製造のため、新鮮な貝の旨味が逃げないのだから美味しいのは当たり前。評判はたちどころに広がり、京浜地区の佃煮問屋からは注文が殺到し、つくってもつくっても売れていった。さらに交通が便利になり東京や京浜地区に通う勤労者が多くなり弁当には、新吉の佃煮が常備菜として家庭に用意されるようになっていった。
  昆布の吸い物からヒントを得て、旨味の正体がグルタミン酸塩であることを池田菊苗(東京帝国大学教授)によって発見されて、グルタミン酸塩による調味料「味の素」の製法特許を取得したのもこの年である。新吉は、「昆布も旨いが、俺の漁場の蛤とアサリ汁の味が天下一よ」と皆に振舞った。その旨味はアサリ貝に含まれているコハク酸にあることが後に発見されている。ビタミンB12や鉄分の働きは、貧血を防いだり肝臓や消を助ける役割をする。アサリにはこのビタミンB12や鉄分が多く含まれている。それにカルシュームが含まれているので申し分ない。貝の種類は何千と言う程あるが、貝塚から一番多くでてくるのがアサリ貝で、古代の人達も美味しくて、体によいアサリ貝の魅力をよ知っていたようだ。中国の古文書・魏志倭人伝に「和の国は、長生きで元気な人が多く住んでいるところ」と言う意味のことが書かれている。これからの高齢社会も、元気で活力を保つためにも、アサリ貝を常食にする必要があるかも知れない。新吉も体験によって、アサリ貝の素晴らしさをよく知っていた。昭和5年、新吉は東京湾の養殖、佃煮の製造すべて順調。内海王とまでとまでいわれるようになった。 ( Takeda)
アサリの佃煮の科学
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